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 パタンと本を閉じて、コーヒーカップを手にしようとした時、斜め前の席に初々しいリクルートスーツ姿の女性が座った。シャツの白さと微妙なスカート丈が就活生を思わせた。黒い髪が柔らかく、小さな顔には透明感がある。そのあとに、同じくスーツ姿の男性がカップを2つ持ってやってきて、彼女の隣に座った。
 私はぬるくなったコーヒーを飲みながら、何となくその2人を観察してみる。彼らの笑顔は眩しくて、付き合い始めのような少しの距離感と思いやりのようなものが感じられた。何を話しているかまでは聞こえなかったが、会話は途切れていないように見える。
 ふとした瞬間、彼の指が彼女の首をなぞり、鎖骨辺りに触れた。その時、彼女は顔を真っ赤にして照れたように笑っていたけども、なんだか私も恥ずかしくなって、彼らから目をそらし、再び本を開いた。
 開いたけども、内容は頭に入って来なかった。落ち着いて考えてみれば、彼はいやらしい気持ちで彼女を触ってはいたのではなく、多分、ネックレスのチェーンが曲がっていたとか、チャームがまっすぐになっていなかったのを直してあげたのだろう。
 しかし、私はなんだか他人の官能的なシーンを覗き見したような気分になって、すっかり恥ずかしくなってしまった。

 そのようなことを今日家に帰って鏡を覗いた時に思い出したのだった。鏡を見ながら、自分の鎖骨辺りをゆっくりとなぞってチェックする。いやらしい気持ちにはならずに、少しの虚無感。やっぱり以前よりも腫れている。
 最初は、少し嚥下がしにくいなと思った。次に、喉仏の辺りが腫れてきたなと気付いた。その後は、喉仏ではなくて、喉仏と鎖骨の中間が腫れているのだと分かっ た。
 やっぱり、手術しかないのかなあと思って、その部分に触れてみる。何も感じず、ちっとも官能的ではなかった。

 真夜中の痛みや熱は人を孤独にする。本を読んだり、友達にメールを送って孤独を紛らわしてみる。でも、本当に辛い時には読書しても頭に入らないし、友達は友達で次の日の仕事のために、私に構っていられないこともある。そんな時は、ひたすら熱と痛みに耐える。眠れない。
 誰かが小説に書いていた。高尚な悩みも具合の悪さには打ち勝てない。今の私もそう。普段の私は世界の飢餓をなくすには、世界平和を目指すには、とか考えたりもするけれど、今は痛みと孤独に耐えるのみ。
 今、私を救ってくれるのは、恋人でもなく、親でもなく、薬だけなのだ。
 白い錠剤を水を使って下手な嚥下で飲み込むと、私は孤独に背を向けるようにベッドに入り、目を閉じる。

 おやすみなさい。