性癖

 雨がしとしと降る中、少しだけ窓を開けて、何もすることがないねえと言いながら、ふわふわの毛布にくるまる幸せは梅雨ならではかと。
 私はあまり雨が好きではないし、できれば晴れていたほうが洗濯物も干せるし、靴だって洗えるし、買ったばかりの多肉植物のキリンちゃん(蘇鉄麒麟)だって日光浴させることができるから、願わくば晴れてほしいけれど、まあこんな季節の変わり目には体調が悪くて動けない日も多い。
 熱がある日には、ベッドの上で大人しくしているに限る。

「熱、少しは下がりましたか?」
と、山田くんが凍ったアイスノンをタオルにくるみつつ、ぬるくなったものと取り替えてくれる。そして、私が寝ている側に腰掛ける。
「狭いからあっち行ってよ。それに、うつっても知らないよ?」
「先輩の熱は風邪とかと違って、うつるものではないから大丈夫です」
 そんなことを言いながら私のおでこに手を当てて、ふむふむ、まだ下がらないですねえと独りごちた。

 そのまま、山田くんが優しく私の頭を撫でているので、私は彼の体温を感じて少し落ち着く。
 こんなふうに、前の彼女にもしていたのかなと思って、聞いてみたら、山田くんは一旦手を止めた。
「先輩はそんなことを気にする人なんですか? 意外ですね。前の彼女はとても元気な人だったので、看病することはありませんでしたよ」
いや、そうではなくて、頭なでなでのことなんだけど、と聞き直すのもあれなので、一瞬口を噤む。
「健康な人はいいね。体調とか気にせず遊びに行けるし。健康な体には健全な精神だよねえ」
「健康だから健全な人とは限りませんよ。彼女も不思議な人でしたし」
「どんな?」
「私の唾液を飲んで、そしてあなたの唾液を飲ませて、という要求をしてきました」
 山田くんはそう言うと、ははっと声に出して笑っていたけれど、私はぽかんとしてしまった。
「それでどうしたの?」
「んー、知りたいですか?」
「やっぱいいや」
「そう言うと思いました」
 山田くんはにやにや笑って、私の頭をくしゃくしゃ撫でた後、水分摂ったほうがいいですよ、とポカリを渡してきた。
「実は、僕にも健全ではない部分があるんですよねえ……」
「それは意外。きみは馬鹿正直で分かりやすい人だと思ってたけど」
「なめてますか?」
「素直だって褒めてるんだよ?」
 私は言われた通り、こくこくと水分を摂る。
「じゃあ、素直に言いますけど、僕は先輩の看病をするのが楽しいのです」
「ええっ、迷惑かけてごめんね」
「それは善意というよりは、征服欲を満たすというのに近いかもしれません」
「ん、どういうこと?」
「セックスに近いというか、支配したいというか、いや、でも、先輩に対して誠実に向き合いたいというのは本当なんですけど……」

 うーん、熱のせいか、山田くんの説明が下手なせいなのか、よく理解ができないけれど、いつも私が寝込んでいる時にごはんを作りに来てくれたり、看病してくれたりするのはありがたいことだし、それによって元気をもらっているのも事実だし、まあいいかという結論に至る。
「山田くんのおかげで少しは健康になれているので、いつもありがとう」
と私が言うと、山田くんは不思議そうな顔をした。
「先輩はとても頑固ですけど、実は僕なんかより、とても素直な人ですよね」
 そう言って、山田くんは私の手を握ってくれた。

永遠の15分

 背伸びして一番上の棚にDVDを並べ終わり、腕を下ろそうとした瞬間だった。ちょうどその時、隣にいた男の人に腕をぶつけてしまった。

「あっ……、申し訳ありませんでした……」

「あの」

 前日、客に意味の分からないクレームで追い詰められたばかりだったので、思わず身構えた。今日までも悪態をつかれたくはない。

 私の目の前の男性は少し躊躇しながら、右手に持っていたレシートほどの小さな紙を私の目の前に差し出した。

「これ」

「あ、落し物ですか?」

 私がその折りたたまれた紙を受け取ろうとすると、

「これは俺からあなたにです!」

と、彼はその紙を私に押しつけ、店内からそそくさと出て行った。

 私はぼんやり彼を見送った後、3回ほど折りたたまれた紙を広げてみる。そこには、私への好意の言葉とメールアドレスが書かれていた。そして、最後には「春になったら桜を見に行きましょう」と。

 私は恥ずかしくなって、他の客に見られないように、その紙をそのままポケットの中にしまった。

 手紙をくれた彼はよくお店に来る客だった。手紙には名前が書かれていない。茶髪で少しイマドキの男の人で、多分、年齢は私と同じくらい。私はメールを送るつもりはなかった。きっと、友達と罰ゲームでもして、ナンパみたいなことをさせられているのだろう。それか、メールの返信が来るか来ないかを友達と賭けたりとか。だけど、今度お店に来たら、もし、私のレジカウンターに並んだならば、その時、カードに書かれた名前を見てみようかなとは思った。

 

 彼は月曜、水曜、そして今日、金曜日にお店にやってきた。多分、毎週そのローテーションでやってきているのだろう。月曜と水曜、私はカウンターの奥で新しいDVDのラベルを貼ったり、パソコンへ登録したり、忙しく働いていたので、彼が来たことは分かっていたけれども、話すことはなかった。

 しかし、今日は私の担当するレジへ彼がやってきた。

「いつも深夜に働いてるんすか?」

「……はい、時給いいので」

 私は彼のカードを受け取りつつ、さりげなく名前をちら見。「ナカニシ カツオ」かあ。顔に似合わない名前だと思って、思わず笑いそうになる。

「メールが送られて来ないんだけど」

「……はい、送ってないので」

 DVDをスキャンして、防犯用のプラスチックを外す。

「千円です」

 お金を受け取りつつ、彼の手を見ると、意外とごつごつしていた。

「俺、ナカニシっていいます。また来ますから、サトウさん!」

「えっ」

 私は動揺しつつ、レンタル用バッグを彼に渡すと、彼はニコニコ顔で手を振って去っていった。

 ああ、私の名前、名札を見たのかあ。と気付くまでに少しの間があったので、私はちょっとだけ浮かれていたのかもしれない。

 

 次の月曜日、また彼はやって来た。

「まだメール届かないんですけど?」

 私は無言でカードを受け取ってスキャンする。カツオくん。ピッ。

「俺のお父さん、魚釣りが大好きで、それで俺の名前、カツオなんすよ」

 DVDバーコードを読みとりつつ、とりあえず頷く。

「深夜は人がいなくていいすね。こうやってお話しできるし」

 別に対話はしてないですけどね。

「千円です」

「最近、あったかいから桜咲くかなあ。早くお花見行きたいね」

 お金を受け取り、無反応でレンタルバッグを渡す。

「また来るよ!」

 彼は嬉しそうに去って行った。

 

 水曜日、彼は来なかった。

と、思っていたが、バイトを終えて店を出ると、彼がいた。

「まだDVD見終わってないから、今日は借りれないんすけどねえ。でも、話したかったから」

 そう言って、彼は右手に缶コーヒー、左手にミルクティーをかかげた。

「おつかれっす。どっちがいい?」

「……ミルクティー」

 私がぼそっと呟くと、彼はぽんっと手渡した。ミルクティーは冷たくなっていて、こんな寒い中、しばらく待っていたのかなと少しかわいそうな気持ちになった。

「春が待ち遠しいなあ」

 私はバイトで疲れていたので、遠慮なく飲み始めた。その時、いきなり彼が叫んだ。

「ああっ! こんなところに、もう桜が咲いてる!」

「え?」

 彼は自分の右手を覗き込んでいた。まさか、まだ寒いのに桜の花びらがあるはずもない。そう思ったが、私も彼の右手を覗き込んだ。

 すると、そこには100円玉があった。でも、よく見ると確かにそこには桜がデザインされていた。

「なーんだ……」

と、私が顔を上げると彼と目があった。一瞬間があった後、そのまま、彼の唇が私の右頬に触れた。

 

 金曜日、彼はお店に来なかった。なんとなく水曜日の一件で気まずかったので、少しほっとした。

 土曜日、私はいつも深夜にしかバイトに入らないのだけれど、いつも昼間に入っているタナカさんがインフルエンザらしいので、ヘルプとして珍しく13時から働いていた。

 週末の午後は、親子連れやカップル連れが多くて、お店もにぎわっている。そんな時、見慣れた顔の人が女性と共にやってきた。女の人は少し派手で髪もきれいに巻いてあって化粧が映えていた。「カツオくーん、ラブストーリーがいいなあ」と彼の腕にからみついて甘えている。

 私は少し、大きめな声で挨拶する。

「いらっしゃいませー」

 その瞬間、彼と目があった。あ、と私は思った。多分、彼も。

 

 次の月曜日には彼はお店に来なかった。水曜日にも。

 もしかしたら、お店には来ているのかもしれない。だけど、もう私と顔をあわせることはなかった。

 桜はもうすぐ咲くけれど、もうあの小さな花びらを2人で見ることはないのだろう。

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 パタンと本を閉じて、コーヒーカップを手にしようとした時、斜め前の席に初々しいリクルートスーツ姿の女性が座った。シャツの白さと微妙なスカート丈が就活生を思わせた。黒い髪が柔らかく、小さな顔には透明感がある。そのあとに、同じくスーツ姿の男性がカップを2つ持ってやってきて、彼女の隣に座った。
 私はぬるくなったコーヒーを飲みながら、何となくその2人を観察してみる。彼らの笑顔は眩しくて、付き合い始めのような少しの距離感と思いやりのようなものが感じられた。何を話しているかまでは聞こえなかったが、会話は途切れていないように見える。
 ふとした瞬間、彼の指が彼女の首をなぞり、鎖骨辺りに触れた。その時、彼女は顔を真っ赤にして照れたように笑っていたけども、なんだか私も恥ずかしくなって、彼らから目をそらし、再び本を開いた。
 開いたけども、内容は頭に入って来なかった。落ち着いて考えてみれば、彼はいやらしい気持ちで彼女を触ってはいたのではなく、多分、ネックレスのチェーンが曲がっていたとか、チャームがまっすぐになっていなかったのを直してあげたのだろう。
 しかし、私はなんだか他人の官能的なシーンを覗き見したような気分になって、すっかり恥ずかしくなってしまった。

 そのようなことを今日家に帰って鏡を覗いた時に思い出したのだった。鏡を見ながら、自分の鎖骨辺りをゆっくりとなぞってチェックする。いやらしい気持ちにはならずに、少しの虚無感。やっぱり以前よりも腫れている。
 最初は、少し嚥下がしにくいなと思った。次に、喉仏の辺りが腫れてきたなと気付いた。その後は、喉仏ではなくて、喉仏と鎖骨の中間が腫れているのだと分かっ た。
 やっぱり、手術しかないのかなあと思って、その部分に触れてみる。何も感じず、ちっとも官能的ではなかった。

 真夜中の痛みや熱は人を孤独にする。本を読んだり、友達にメールを送って孤独を紛らわしてみる。でも、本当に辛い時には読書しても頭に入らないし、友達は友達で次の日の仕事のために、私に構っていられないこともある。そんな時は、ひたすら熱と痛みに耐える。眠れない。
 誰かが小説に書いていた。高尚な悩みも具合の悪さには打ち勝てない。今の私もそう。普段の私は世界の飢餓をなくすには、世界平和を目指すには、とか考えたりもするけれど、今は痛みと孤独に耐えるのみ。
 今、私を救ってくれるのは、恋人でもなく、親でもなく、薬だけなのだ。
 白い錠剤を水を使って下手な嚥下で飲み込むと、私は孤独に背を向けるようにベッドに入り、目を閉じる。

 おやすみなさい。

あなたの大切なもの

 人は守りたいものによって、生き方が異なるのだと思う。

 私の友達は子どもができてから、以前よりもしっかりして母親らしく生活している。夫と子どもの食事に対して、責任と愛情を持っている。また、彼らが心地良く過ごせるように、日常の家事をこなしている。

 私はどうだろう。

 気ままな一人暮らしで、生きるために仕事をしているのか、仕事をするために生きているのか分からない生活をしている。守りたいものや固執するものなどはない。「幸せになりたい」というような願望も特にない。

 去年、私の病気が発覚した時、知り合いに話の流れでその病名を伝えた。彼女は一瞬、表情を曇らせて「その病気、人にうつるの?」と聞いた。彼女はその時、妊婦だったから、自分の子どもへの感染を恐れたのかもしれない。幸い、私の病気は感染するものではないのだけど、昔のハンセン病患者などはこういう気持ちを抱いたのかもしれないなあと私は複雑な気持ちになった。

 人は良くも悪くも一人ではなく、誰かしらと関わって生きている。自分の大事なものによって、自分の価値が決まるというわけではないけれど、何も守るもののない私は宙ぶらりんな気持ちではある。

 

 というようなことを山田くんに話した。話しても意味のないことだとは思ったけれど、何となく今日は言わずにはいられなかった。

「あなたらしく生きているのだから、余計なことは考えなくてもいいんじゃないですか?」

と、山田くんは言った。

「病気だって、人に迷惑をかけているわけではないし。先輩が具合悪くなると、僕は心配しますが、そういうのは迷惑とは違うし。それより、美味しいおはぎがあるので、緑茶を入れます。美味しいものを食べると元気が出ますよ」

と言って、彼は台所へ向かったので、私もその後について行く。

 山田くんは気楽な人だなあと思って、何気なく、その広めの背中に頬をくっつける。ニットの上からだったけれども、彼の体温が感じられた。私の守るべきものは山田くんではないとしても、この体温に触れることができるなら、もう少し生きてもいいかな、と思えた。 

Synchronicity

 例えば、学校帰りに「今日の夜ごはんはカレーがいいなあ」と思って帰宅すると、母が嬉しそうに鍋をかき混ぜていて、その中身がカレーだったり、またある時は、お店で「このポーチかわいいな。買おうかな、どうしようかなあ」と迷った挙句に買って帰ると、リビングで妹がニコニコしながら同じポーチを「いいでしょ!」と自慢げに見せてきたり……。

 この現象に名前を付けるとすると、一体何だろう。

 単に血が繋がっているから、好みが同じなのかなとも思ったのだけれど、どうやら、そうとも限らないらしい。

 

 私は特に食欲が人より旺盛というわけではないけれど、時に、「ジンジャーエールが飲みたい」とか「お団子食べたい」とか「チョコのロールケーキが食べたい」とか漠然とだけど、ピンポイントな欲求が浮かんでくる。

 そして、最近、その欲求の大抵3日以内に、山田くんがジンジャーエールやらお団子やらロールケーキなどを持参してやって来るようになった。

 この現象に未だに名前を付けられない私は、この流れを説明するわけでもなく、ただ単に「ありがとう」と言って受け取る。「ありがとう、ちょうど食べたかったの(もしくは飲みたかったの)」だと、何だか安っぽい社交辞令にしか受け取ってもらえなさそうで、わざと何でもなさそうに受け取る。そんな時でも彼は笑顔なのだけれど。

 好みが同じというわけではない。私は薄味が好きだし、山田くんは濃い味が好きだ。私は辛いものが好きで、山田くんは多分、そんなに辛いものは得意ではない。私は山田くんに会えない夜も好きだけど、山田くんは私に会えない夜は寂しいらしい。

 いろいろ好みも違って考え方も違うのに、たまに何かが重なることがあって、だからこそ、もっと君のことが知りたいと思えるのかもしれないな。と、本人には直接は言えないけれど、そう思っている。 

節分

 ここ数年、カレンダー上の行事を気にしないで生きていた。

 そもそも、私は数字に関する記憶力がおそらく他の人よりも劣っていて、誕生日や記念日などを全く覚えられない。

 

 昨日は締め切りに追われて仕事をしていたら、山田くんが家にやってきた。

「先輩、恵方巻持ってきたんで、一緒に食べましょう!」

「やれやれ、今日は節分ですか」

 山田くんのバッグには、恵方巻と豆とケーキが入っていて、私は温かい緑茶を入れる。

 

「南南東はあっちですか? 食べてる間は喋っちゃダメですよ」

 ヘンなところが真面目な山田くんは、黙って恵方巻を頬張るけれど、私は何だか気恥ずかしくなって、一口食べては「サーモンも入っているね」とか「中の卵焼きが甘すぎる」とか、話してしまう。そんな私の言葉も聞こえないふりをして、彼はもぐもぐと口を動かして一生懸命食べている。一体何を考えているのだろう。

 

 恵方巻の後はデザート、ティラミスのケーキ。洗練された店のものではなく、とてもシンプルだけれど嫌味ではない作りをしていた。山田くんは私よりも甘いものが好きだ。

 ケーキの角をフォークですくって、にっこりと、彼は私の目の前に差し出す。

「はい。どうぞ」

 私は一瞬、ひるむけれど、ゆっくりとフォークに顔を近付け、私の口のサイズに切り取られたケーキを唇ですくい取る。ふわふわとしたスポンジ生地とコーヒーっぽいクリームの味がした。

 目を上げると、山田くんはびっくりした顔をしていた。まさか、私が素直に受け取ると思っていなかったのだろう。彼のぽかんとした顔は、何故かあの黄色と黒のしましまの間抜けな鬼のパンツを想起させた。